「目からうろこ!」コーナーの紹介
なにか、皆さんの参考になれば幸いです。
『響きに革命を起こす ロシアピアニシズム:大野眞嗣著』を読んでいて、演奏家に響きのパターンが二つあることが分かった。
一つは、「太くて豊かな響き」をいい音とする「基音」をベースにする響き。もう一つが、音圧で響かせない「倍音」による響き。
「基音」とは弾いた瞬間に鳴る立ち上がる音のことだが、この基音だけを聴いて演奏すると音色の変化は生まれないし、遠達性のないいわゆる「近鳴り」の音になる。
一方、「倍音」による演奏とは、基音にのみ注意を払わず、空間に広がる音をとらえるように弾く。この「倍音」による演奏をするためには、「基音」を細くし、その基音の周りにまとわりつくように響きのヴェール(倍音)を存在させるようにしなければいけない。
ピアノの世界では、この「倍音」を基調にした音の響きで演奏することを「ロシアピアニシズム」と呼び、一方で、「基音」をベースにした響きで演奏することを「ドイツピアニズム」と呼んでいるらしい。
先日、松本富有樹氏のコンサートを聴いていて、なぜこんなに、立体的で豊かな響きの音が出せるのだろうと思っていたが、彼は、「倍音」が響くような音で演奏していたのだ。彼が使っている「シンプリシオ」という楽器の鳴りも、「倍音」での演奏に適している楽器なのだろう。
これまで、多くの演奏家のコンサートを聴いてきたつもりだが(といっても福岡の地では限られているが)、多くの演奏家は、「基音」による演奏家たちがほとんどだったような気がする。
音色に独特の色気がある三良裕亮氏は、「倍音」による数少ない演奏家の一人だろう。先日のブーシェによる演奏会での演奏は、特に、そう感じた。
何度聴いても、何時間聴いていても飽きの来ない演奏というのは、この「倍音」による響きの音を基調にした演奏のような気がする。
仏教の教えには、自力と他力がある。
禅宗などは自力の教えで、空の理論を理解し体得するなど、厳しい悟りへの努力を行うことで悲願を叶えるのに対し、真宗などの他力の教えは、ともかく仏を信じれば救われるというものである。そして、「美の法門」の作者柳宗悦は、才があるものは自力を目指せばいいが、凡夫は他力で行くのがいいという。
美しい音楽を生み出すには、凡夫である私は、他力で行くことになる。つまり、自由に演奏できるようになるまで弾きこんでおけば、あとは、音楽の精霊に任せる、つまり他力で演奏すればいい。
また、この他力というのは、論理を考える左脳でなく、情動を司る右脳で弾くということでもある。
他力で演奏することで、静かな感動を聴く人に与えることができる。
つまり、才能がなくても、弾きこんでいくうちに美しい音楽を奏でることができる。柳宗悦が言うところの職人的美である。子供でも一生懸命に練習し、無心に演奏すれば聴いている人に感動を与える演奏ができる。
しかし、下手にそこに自力(考え)を入れる、つまりは、うまく弾いてやろうとか、自分のうまさを自慢してやろうなどという邪念を持ち込むと、とたんに他力の演奏ではなくなり、才能がない人間が奏でる自力の演奏になり、聞き苦しいこととなる。
ちなみに、持って生まれた才能とその才能を伸ばす能力を兼ね備えた真のギタリスト(音楽家)は、自力で演奏活動を行うことで、聴くものに感激を与えることができる。これは、他力で演奏することで受ける静かな感動ではなく、気持ちを大きく揺さぶる動的な感動である。
